元々これを書かれた方は、故「辻尾正治」さんという、生駒の聖天さま「宝山寺」の著名な信徒さんで、七十歳ごろから八十九歳で往生されるまで、コツコツと二十部(冊)を、何百万円もかけて自費出版されてきた尊い方で、今はその養女である、洲崎智津子さんが大体二部づつを編集して再版されている。非売品であり、宝山寺でいただける。今回、宝山寺へ巡礼したときも寺務所の棚に「おろかもの」が数冊重ねておいてあった。本年度版なので、芦屋の知己にいただいたものと同じ(第十三部・第十四部)であった。
自身熱心な聖天さまの信仰者である、芦屋の知己は勿論、関西の読者さまで既に「おろかもの」をご存知の方も多かろうと思いますが、大変素晴らしい頷けることが多々書かれているので、自分の愚かさを暴露する覚悟で、まだ知らない読者の方に一部を引用抜粋したり、感じたことをシェアしたいと思います。これは読めば読むほど、まさにタイトル通りに自分の「愚かさ」を、これでもかこれでもかとグサグサ突き刺さるような内容なので、皆さんにそれを露顕してしまうことになっても、高僧や仏教学者の偉い人が書かれた数ある書物よりも、はるかに心に沁みるものがあります。それでは、冒頭の「はじめに」とされたページのあとに、『参拝』と題された挨拶文のページから。
「お参りは、年数 の問題ではない。」「お参りは、回数 の問題でもない。」
見つけられない、我が心。 見つけてみたい、我が本心。 見つけられる、時期が来る。
逃げてはならぬ、避けてはならぬ。 神仏は『一番の 心の治療だ』。
いかがですか?
実際のページには、「我が心」と「我が本心」の部分に、波型の線が引かれて強調されています。そして「心の治療だ」という部分が、最も大きな文字で書かれています。これは、養女である現在の発行者、洲崎智津子さんが加筆された部分だと思われますが、とても短い文章の中に深い信仰心に対する、信念のようなものを強くひしひしと感じます。これから遍路や巡礼に出られる方、また幾度も遍路をされた方、ただ社寺仏閣に観光で参詣したり、御守や御札を買いに行くだけの方も、人それぞれに違う捕らえ方をされると思いますが、貴方が今、感じられたそのままが、今の貴方の信心というか、神仏に対する観じ方なのかもしれませんね。
ハナから話しはズレますが、自分は最近つくづく「馬鹿」なんだと思ってきました。「アホちゃうんかい?」と。「もっと頭良かったらええのになぁ〜」「どうか聖天さま、御仏のお智慧を拝借出来ますように。」と、毎日祈ることすらあります。以前の自分では考えられませんでした。「どんな物でも自分に売れない物はない!」「どんな相手にでも買って貰えないものはない!」「商売のアイデアは誰にも負けない!」そんな風に、自分が一番なんだと過剰な自信に満ち溢れていました。勿論、社員より真剣に何倍も働きますし、常に知識吸収も怠りませんでしたが、それは更なる欲のためであって、あのころは自分を馬鹿だとは到底思えませんでした。それが近頃は、本当に「アッタマ悪いのぉ〜」と思うのです。
誰しも経営者なら自信家が多いと思います。
自分の身丈を弁えているか否かはあっても、自分で自分を褒めちぎり自信を持ち続けないと高いモチベーションを維持できません。トップにいる以上、誰にも注意されたり怒られたり指導されたりしない分、誰も褒めてもくれません。背伸びした目標を掲げ、クリアしていくごとに「よくやった」と、自分で自分に褒美を与えていました。自分は物覚えが人より速い、しかも長く覚えていられる。回転も速い。幾つものことを瞬時に決断し、的確な指示が出来る。商売に学歴なんか関係あれへん、自分よりもはるかに高学歴の人間を沢山雇って、密かにコンプレックスを克服してもいました。
御仏の弟子となった今、そんな生き馬の目を抜く欲に満ちたビジネスの世界が(自分にとってはそうだった)、小さく小さく思えて仕方ないのです。御仏の智慧に比べれば、自分の知恵など浅はか極まりなかったと思うのです。このブログにしても最近、以前のように気軽には書けなくなって来ました。救済事業のため、忙しいのも言い訳としてありますが、それ以上に宗教や仏教に関する、要するに御仏の教えに直接繋がるような物を書くことに、ある種の責任を感じるようになってきたのです。
以下、「おろかもの」より引用です。
「ものを書くと云う事は、本を読むだけではないのです。体験が必要なのです。仮にも宗教本を書くには、無心無欲でないと本当は書けないのではないでしょうか。故に学者の書いた宗教本は読み難いのと違いますやろか」故・辻尾正治氏は大阪の方なので、こういう大阪弁の言い回しが多いのですが、敢えてそのまま引用しました。彼は私心が混じると筆が進まないと云います。「我淨ければ施も亦淨し、施淨きが故に願も亦淨し、願淨きが故に菩提も亦淨し、菩提淨きが故に一切の法も亦淨きなり」『大乗経』。氏はこのように心掛けたいと思いながらも、自らを煩悩具足の悪凡夫だと戒め、書くことによって神から教えられていると云います。
朝二時半に神仏へのお給仕をして、五時前に家を出て、宝山寺までの列車内で正座して読経しながらの日参を、四十年も続けたような彼のような人が、悪凡夫ならば、自分程度の男は一体なんなんでしょうか。ゲゲゲのド外道でしょうか(笑。 更に興味深いのは、続く引用部分です。少々長いですが、敢えて中略せずに抜粋します。
「現在の此の混濁した娑婆世界、生き難いですよね。息が詰まりそうな社会ですね。時には神も仏もあるものかと思う時があるのと違いますやろか。上と云い、下と云い、皆得て勝手に暮らしている社会。私もそうでしょうけどね。政治の悪いのは投票時の誤り。皆さん確りしましょうね。社会が悪いのは、甘やかされ過ぎて増長した罰則、お互いに反省して、少し宛でも善い社会を造りましょうね。」
「国乱れて忠臣出で、家貧しゅうて孝子出づ。とは、孔子の言ですが、昔と言っても私達の若い頃ですが、モット気概も有り世の中もモット平穏で有ったのですがね。現在、物も豊富に有り余る御時世となり、人間の心はどこへ行ったのでしょうね。徐々に徐々に良心に目醒めかけている、若い人達も見受けられるようになって来てはいますが、夢から醒めない人達の如何に多い事でしょうか。いつ迄も歓楽の夢ばかり追っていては、いけませんのにね。」
「現在の不況は、神の降し給える鉄槌と受け取れない事もありませんね。上々の景気では、皆が増長しますからね。」故・辻尾正治氏が実際にこの章を書かれたのは、今から二十五年前の昭和五十八年(1983年)のことである。今の日本がおかしい!危ない!何とかしようぜ!と言い出しているのに、既に二十五年も前から警告してくれてたんですね。自分はそのとき、十八歳。初めて結婚した歳で、初めて離婚した歳で、初めて再婚した歳で、ハイファイハイクォリティーのビデオデッキに、8ミリビデオカメラを買って、ソアラに乗って喜んでマハラジャ全盛期を謳歌していた、ただのガキでした。身を起こすことが大切であり、今からでも決して遅くはないけれど、諦めてはいけないけれど、「あぁ・・あの頃から、日本再生に命を賭けていれば、もっと多くの人を救えたのに。」そう思うと、本当にお馬鹿ですね。
もう少し書かせて貰ってもいいですか?
親鸞の門弟であった唯円が直接、親鸞から聞いた言葉を書き記した著述『歎異抄(たんにしょう)』というものがあります。有名なのでご存知の方も多いと思います。最近自分は、真言密教や空海だけに限らず、他宗の開祖や他宗の教義も色々広く学びたいと思うようになりました。中でも特に親鸞に今は興味を惹かれています。今回、親鸞のことは詳しく書きませんが、その一節が「おろかもの」で取り上げられています。
カンタンに言うと、親鸞が弟子の唯円に「自分の事を信じて背かない事を誓うなら、救われる為に千人殺してみよ」と云う話しです。結局その問答で、殺せる筈がないとした唯円に対して親鸞は、「何事も自分の心のままになるなら、救いを得るために千人殺すのも遠慮はないが、良心があるからではなく、一人でも殺す因縁がないから殺さないのだ。又、殺すまいとしても百人千人殺す事もあるだろう」と諭した話しです。
「おろかもの」の中で氏は、「私達の心で善悪を判断し、仏の誓いの不思議に縁って救われると云う事に、気付かないでいる事を教えているのだと記している。この話しは親鸞が書かれた他の書でも読んだが、自分にとっては深くて難しい。宗派によっては、『歎異抄』自体が、無責任極まりない親鸞の象徴と誹謗中傷するところもあるが、氏はこの部分について次のように分かりやすく述べて下さっている。今度は少々中略、自分なりの編集してお伝えしたい。
「仏教は只単に表面だけを読んだのでは、間違った解釈になるのではないか。如何なる悪業も念仏一遍唱えたら、救われるのなら、悪いことし放題したモン勝ちになってしまう。が、どんな悪病も治すような名医が居たとして、人はわざわざ不養生して病気になるだろうか。」「病気になったとして、名医の元へ行けば、これまでの不養生が原因で病気になったのだから、今後も同じような不養生を続けていれば私でも治せないよ。そう諭されて薬を飲まされる。その養生法が、即ち仏の教えの五戒、十戒、八正道、四要諦となって来るのである。」
「養生もせず、薬も飲まず、病気は治らない。ここに薬があるのに、わざわざ毒を飲むものはいない。」とした上で、「ところが皆さんは、自分は悪いことをしながら、金儲けさせて下さい、健康にして下さい、いや霊感を下さい、等と勝手なことばかりお願いしているのではないでしょうか。」これには、自分も含めて耳が痛い人が多いのではなかろうか。最後に彼はこう締めくくる。
「神仏は方便を以って、神の御力を示すために、或る人には一時其の願いを叶えるのです。が、願いが叶うと後はパーでは、其のツケは必ず廻ってくるのですよ。現代の世相、悪臭充満して泥水以上の混濁の世で、善が報われないような錯覚を起こしますが、然し其の中にも黙々と種種の善根を施して居られる方々が居られましょう。」氏は、そんな人達の活動が、自分の心の支えになるとして、泥中の蓮華のようだと例える。世に報われずとも、自分の綺麗な花を咲かして行く。「人知るも、人知らざるも、花は咲く。」とても善い言葉です。
「人の為と書いて、偽りと読む。」これは、自分の好きな相田みつをの言葉ですが、先日感銘を受けて今後救済事業に支援させていただく、片山源治郎氏の著書、『今、ここを生きる こころを伝える7通の手紙』
〜編集後記〜
本日もご愛読有難う御座いました。
せっかくの七夕ですが、今夜は雨模様ですね。お祭りをするところも多いのではと思うと、愉しみにしている子供達も残念でしょうね。でもきっと、雨雲のずっと上の星たちが輝く夜空では、彦星さんと織姫さんは逢うことが出来るんでしょうね。
先日から、仏壇の水子位牌に粉ミルクをあげるようにしました。小さな子供の居ない家のキッチンに、粉ミルクの缶がで〜〜んとあるのは、ちょっと違和感のある風景ですが(笑。 ちゃんと、さじ一杯分を40mlのお湯で溶いて、可愛らしいカップに入れて朝晩の勤行時に給仕しています。かつての自分の子供たちにすら、したことがないことです。でも今まで、勝手な男の都合で何人もの罪のない胎児を堕ろさせて来ました。相手の女性の身体と心も容赦なく傷つけて来ました。それらの罪を今更許して貰おうなどとは思っていません。ただ、こうして手を合わせて生涯詫びて行くだけです。それでも償いきれるものではないでしょうが。
虚空蔵求聞持法
六十二万五千遍









今日もとても造詣の深いブログを拝見させていただきまして、
有難うございました。毎回感謝しています。
信仰の奥深さ、難しさ、そして生きていく上での不可欠なもの…。
そういったことを考えさせられるブログでした。
ところで話が変わって申し訳ありませんが、法蓮さんが聖天さまに
ついて書かれた最初の頃、毎日の勤行をどうしようかと悩まれて
いましたが、私も今、同じ悩みを抱えています。
今は専門的な判断ができないため、これまでのお経と聖天さまへの
お経を分けて行っていますが、般若心経と観音経そして一部の
ご真言が重複していますので、うまくあげられればと思っています。
拝復
そうでしたね。
自分の場合、大黒天神経や愛染経、阿弥陀経、理趣経等も
混ざりますので、一概に参考にならないかも知れませんが
この件については、後ほど直接ご連絡します。
感謝合掌
法蓮 百拝